2017年2月6日月曜日

召しのこと




(去年の彼杵の海)


昨日と今日、礼拝のメッセージを聞いていて

「希望」

つて語られて

人生に用意された神さまの最善の計画

と聞いた時に

自分のことを思わされました。



私は教会の弁護士になるという

召しがあります。

この召しが与えられたのは

高校3年生の時でした。



高校時代の私は

「自分は迷惑ばかりかけて必要のない存在だ」

と思っていて

どこにも居場所がなくて

いつ天国に行くのかなと

そんなことばかり考えていました。



それでも大学に行きたいという願いは

捨てきれなくて

塾に行くお金もないし

自分の勉強だけで

国公立に入る能力もありませんでしたが

「神さま助けてください。

大学に行きたいです。」

と短く、でも毎日祈っていました。



その時にまさに

降って湧いたように与えられた

公立大学への推薦の道。

神さまとしか思えませんでした。

私は何もしていないのに

ただ恵みで開かれて

希望通りの大学に行くことができました。



でもこの時の恵みはこれだけではなくて

むしろこれよりも大きかったのは

神さまにしか頼れない状況でした。

友達にも家族にも

誰にも頼れなくて

誰にも理解してくれなくて

自分の悩みも言えなくて

「私はどうして生きているのですか」

と神さまにそればかり言っていましたが

自分の部屋で祈っていた時に

頭の中で

イエスさまが十字架にかかっているのが

見えました。

私はそれを呆然と見ていましたが

その時に

「私はあなたの痛みを知っている」

と語られて

イエスさまが地上で

身近な弟子に裏切られ

同じイスラエル人から傷つけられ

鞭打たれて血だらけになって

最後は殺されるのは

この痛みを分けあうためだったんだと

分かりました。

その時にすーっと

一人じゃないと楽になったのを覚えています。

神さまはこのことを分からせるために

私をこういう状況に置いたんだと

思いました。



しばらくして推薦の話が来て

あっという間に大学が決まって

学部を選ぶ時に

絶対に御心のところに進めますようにと祈ったら

弁護士事務所に職業体験で行くことになって

何日か行く間に

教会の弁護士という召しが与えらました。



今でも高校時代の数年が

人生で一番辛かったなと思います。

でも一番、神さまと交わった時でした。

だからあの辛さは召しが

与えられるために必要だったんだと思います。

召しが与えられてからは

この働きを全うするまでは死ねないと

前みたいに空っぽになることはなくなりました。

神さまにあって無駄は何ひとつないなと思います。



Sei